21世紀の彩り・芸術文化

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版画(はんが)について

版画(はんが)

print [英語]
estampe [フランス語]
Druck-graphik [ドイツ語]
 印刷という間接的方法で表現する絵画の形式。本来は同一画像を複数得るためにくふうされたものだが、それぞれの技法の生み出す質感や効果のために制作されることも多く、また1点しか作品のできないモノタイプ版画monotype(油絵の具やインキでガラス板、金属板、石の板に図柄を描き、それに紙を伏せて刷り取ったもの)もある。近年は従来の版画の概念を超えた作品も多く生み出されており、その極端な例としては、鋳型を用いたものや、足跡、指紋、キス・マークによるものなどがある。版画は一般に木版画、銅版画、石版画のように版材によって記述されるが、あらゆるものが版材になりうるので、印刷形式によって凸版、凹版、平版、孔版の4種に分類するのが便利である。

[ 執筆者:八重樫春樹 ]

版画の種類

・凸版法
 もっとも古い版画の方法で、刷り出したい線や面を残して版面を彫り下げ、凸部にインキを塗って紙に刷る方法。木版、メタルカット、木口(こぐち)木版、リノリウム・カットなどがある。西洋では平圧印刷機で刷り出し、日本では馬連(ばれん)などで刷る。木の葉、布、木目のある板などにインキを塗って刷るフロッタージュも凸版法とみることができる。
・凹版法
 銅板およびそれに準ずる金属板(鉄、鋼鉄、亜鉛)、セルロイド板などの表面を磨いてインキを拭(ふ)き取りやすくした版材に、ビュラン、針などで直接画像を刻むか、あるいはその表面に施した防食層を針で掻(か)き削るようにして画像を描き、これを酸で腐食する。この版にインキを塗って拭き取り、凹部(線、点の集まり)に残ったインキを紙に転写させる。
・平版法
 木版画や銅版画のように板面の凹凸を介して画像を刷り出すのではなく、平面上で水と油の反発しあう性質を利用した方法。石版画(リトグラフ)がこの方法によるが、今日では石板のかわりにアルミ板や亜鉛板を用いることもある。
・孔版法
 刷り出す画像の部分を除いて目をふさいだ布、画像を切り抜いた油紙や渋紙を通して制作する版画。シルクスクリーン(セリグラフィ)、ステンシル、合羽(かっぱ)版などがこれに属する。

[ 執筆者:八重樫春樹 ]

版画の歴史

 版画の誕生と紙の普及は深い関係にある。紙の製法がヨーロッパに伝えられたのは12世紀なかばとされるが、14世紀なかばまでには紙はかなり大量に生産されるようになっていたようである。ヨーロッパにおける版画は、まず14世紀の末ごろに木版画が出現し、ついで15世紀前半に銅版画が生まれた。初期の木版画は民衆芸術的な色彩が強く、聖地巡礼の記念品としての聖書の題材や聖像を表したもの、護符、ゲーム・カード、書物の挿絵などに用いられた。15世紀後半になると技術的向上がみられ、同期から16世紀初めにかけてドイツ・ルネサンスの巨匠デューラーが木版画をきわめて高い芸術の次元に引き上げた。クラナハ(父)、アルトドルファーらがこれを受け継いだが、16世紀の末ごろには衰退してしまった。
 凹版法による銅版画は、金工の領域からやや偶然に発明されたが、アルプスの北側と南側のどちらが先かはまだ確認されていない。もっとも早い年記のある銅版画は1446年のものである。金工師の技術領域からは、15世紀の初めに錫(すず)などの軟質の金属板にさまざまの鏨(たがね)で図像や装飾模様を打ち表し、凸版法で刷るメタルカットが生まれたが、銅版画の登場とともに廃れた。当時、木版画師は大工のギルドに属し、銅版画師はそれよりも地位の高い金工師のギルドに属した。
 銅版画はごく初期から工芸的な美しさをもつものが多く、とりわけ上流階級を対象に制作された。初期の銅版画は、金工の道具の一つであるビュランで直接画像を彫るエングレービングであったが、ドイツのE(イー)・S(エス)の版画家の作品や、フィレンツェの「精密技法」に、工芸的銅版画の粋をみることができる。15世紀後半には、イタリアのポライウオーロやマンテーニャ、北方ではションガウアーらの画家たちがエングレービングに手を染めるようになった。そして、銅版画の分野でも、これを絵画などに比べて遜色(そんしょく)のない格調高い芸術として完成させたのは、デューラーであった。16世紀前半はデューラーを中心に、エングレービングがもっとも隆盛を迎えた時代である。ドイツではクラナハ(父)、アルトドルファーら、オランダのルーカス・ファン・ライデン、イタリアのマルカントニオ・ライモンディらが、この時期の代表的銅版画家である。ライモンディは画家のラファエッロと提携してその下絵による版画を制作したが、こうした傾向は16世紀後半のマニエリスムの時代には一般的になる。エングレービングの技術も高度な発達を遂げた反面、芸術的独創性を失って絵画の複製のための技巧に堕した。
 一方、エッチングは16世紀前半にすでにデューラーやアルトドルファーらによって試みられていたが、銅版の腐食に適切な酸の調合がまだみいだされていなかった。しかし、17世紀に入るまでにこの問題も解決され、とくに独創的な実験を重ねたヘルクレス・セーヘルスの後を継いだオランダのレンブラントは、エッチングの表現技術上の可能性を余すところなく活用し、数多くの名作を残した。エッチングはエングレービングに比べて線も自由に描けるうえに製版が著しく速く、即興的な制作さえ可能なので多くの画家たちが試み、17世紀から20世紀初めにかけての創作的版画の中心的技法となった。代表的なエッチャーとしては、17世紀はレンブラントのほかにオスターデ、ジャック・カロ、クロード・ロラン、18世紀ではピラネージ、ティエポロ父子、カナレット、ゴヤらがあげられる。ゴヤは、開発されてまもないアクアチントの技法を利して、『ロス・カプリーチョス』『格言』などの連作で劇的な明暗表現を生んだ。
 一方、18世紀末にイギリスの詩人で素人(しろうと)画家のウィリアム・ブレイクが独創的な方法で数々の優れた版画を生んだが、その一つにディープ・エッチングの銅板を凸版刷りにした『ウリゼンの書』がある。17世紀の末ごろに乾式銅版画の新しい方法としてメゾチントが開発された。これは18世紀のイギリスで流行したが、19世紀前半のターナーによる『研鑽(けんさん)の書』の連作を除けば、おおむね絵画を複製するために用いられた。
 19世紀に入ると、チョークやインキの素描の効果をほぼそのまま再現できるリトグラフの方法が画家たちに好まれ、創作版画のもう一つの方法となったが、エッチングも衰えず、コロー、ミレー、マネ、ドガ、ピサロ、ホイッスラーらの画家たちによって個性のある優れた作品がつくられた。アメリカ出身で印象派のグループに加わった女流画家のメアリー・カサットは、日本の浮世絵の効果をエッチングと多色アクアチントで模倣することに成功している。ドイツの画家マックス・クリンガーも感銘深いエッチングの連作を多数生んだ。
 18世紀末のリトグラフの発明は版画史上の革命であったといえる。ゴヤとドラクロワは、この方法によって芸術性の高い作品を生んだ最初の画家であった。ドーミエは風刺画を中心に4000点ものリトグラフを残している。マネ、ドガ、ルノアールらの印象派の画家たちをはじめ、ブレダン、ホイッスラー、ルドンも優れたリトグラフの版画家であった。19世紀末ごろには多色刷りリトグラフが開発され、ボナール、ビュイヤール、ロートレックらがこれを十分に活用した。
 19世紀末、ゴーギャンとムンクによって木版画の創造的生命が復活され、ドイツ表現主義の画家たち、とりわけキルヒナー、ヘッケルらの「ブリュッケ」(橋派)のグループに受け継がれた。
 20世紀にはほとんどすべての画家が版画を試み、それぞれ特色のある作品を生み出しているが、最大の版画家はピカソであろう。彼はほぼあらゆる版画の技法を駆使して2000点余の作品を残したが、独創的なリノリウム・カットの開発は特筆に値する。また、エルンストらのフロッタージュの試み、長谷川潔(はせがわきよし)、浜口陽三(ようぞう)ら日本人によるメゾチントの復活、そして第二次世界大戦後におけるシルクスクリーンの流行は、版画技術史上注目すべきできごとであった。
 日本では奈良時代(8世紀)に木版画が中国から伝来し、仏教信仰と関連して経文や図像などが彫られた。この技法は平安時代後期(12世紀)ごろから仏画や物語絵の下絵や料紙の装飾などに転用され、重要な美術的手段となった。そして、江戸時代の17世紀後期以降、浮世絵版画の流行に伴い急速な発達を遂げた。銅版画は16世紀後半にキリスト教伝来とともに渡来したが、これを試みた最初の画家は司馬江漢(しばこうかん)であった。

[ 執筆者:八重樫春樹 ]

参考文献
1.J・アデマール、坂本満編・解説『パリ国立図書館版 世界版画』全16巻(1978〜79・筑摩書房)
2.室伏哲郎著『版画事典』(1985・東京書籍)
3.F・サラモン著、中川晃訳『版画の歴史とコレクション』(1976・三彩新社)

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