2010/ 長年絵画創作に励み。数々の美術展で入賞。普及と後進の育成に努めた。八戸市は文化賞を発表する。 | |||
私が生れ落ちた時はちょっと複雑で与えられた。普通を欠けた状態で引継ぎましたようにふり返るとそう思え
るのです。ありがたいことです。引き揚げ者、生活はまずしかったが幼年は山河のある桃源郷に生き、また対 極にある米軍相手に生活された、幼き日々には見てはならなかったのだろうか、追いつめられた性の中での生 活は、ただ、ただ穴を埋めるが如く絵を描いていた、ひとりいても解放されるからであろう。 私は成長しアメリカ教育が入ってきて、何か自由が売りものでなかったかと思う、私共の学校の美術の先生は 専門の教育を受けていなかったのが、ふりかえるによかったと思う。中学の時、法隆寺の菩薩様はインドのア ジャンタから来たんだと言われたことが私の三十を期に二十年間インドに呼ばれる基をつくることになる。中 学時代、私はキユビズム、などをこなし、オヴジエまで作って遊んでいた。私に一代変化をおきたのは、まち がって名声のある高校に入ってしまったことからたまたま悲喜劇が始まる。十七才で国展に入ってしまったの です。この会には、当時、日本の美術史をうごかしている先生方でいっぱいおられ、私はその時代に先生方に 会えたことを私の一生の財産にしています。そして画学生は終わり、いつもだめの連続であったが、理屈ば っかり言っていたのでしょう、かわいがっていただいていた先生がおまえはナマイキダと言われ、酒をかけら れ、出入り禁止となった。私はうれしかった。それは画学生の時代であった。 もし自分のやろうとしていることが、まちがっていなければと思い、三十才を期にインドに私を鏡に写すが如 くインドに二十年を、使うことになる。五十を期にインドを離れた。 私のサバイバルは終わった。つながりが ある外国の地にも行ってみた。いろんなことをいただいた、そして私の中にある日本人が、むくむく顔を出し 今、日本の北に居る、動かずじっとしている。私の生活は宇宙(そら)の気をいただき、共に生きようと勤め ているこの頃です。今インドで教わった遊行期より、私をつき放し私が私を楽しんでいる私を見え出せればい いのだが。 2009年7月8日(水) | |||
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