短歌の価値について ・偶然いい歌が残るかも知れない。それが短歌の存在価値では

自分の歌を作り自分の歌論をたて自分の主張をきめるのに何によってきめるか


自分の歌を作り自分の歌論をたて、自分の主張をきめるのに何によってきめるかと言えばやはりあらゆる文

芸、芸術その他人間の生産、生活などと、にらみあわせてその中の何が本物であり偽者であるか,何が生き残り

滅びるかをみきわめることによってでなければいけない。つまり、短歌のいろんな主義主張が歴史の中で生き

ていくものであるか滅びる去るものであるかを考えることである。こんにちの短歌は大きくわけて写実と反写

実になる。どの芸術でもまたどの時代でもこの二つの流れがある。どちらが良くどちらが悪いかきめるもの

は、歴史である。私は写実的な立場をとっているが歴史の上からわかることは一つの文化とか一つの階級とか

の上昇期に生まれるのが写実であり下降期に生まれるのが反写実であるということである。万葉集、古今集、

新古今集をその例としてあげることができる。すなわち、滅び去るものが反写実であると私は思っている。し

かし私達の生きている時代は複雑なものであり私自身また、写実、反写実の両方をもっていることを認めねば

ならない。短歌は小説とか詩とは違う所をもっている。それは短歌の場合やはり小さい作者達が集まって作り

あって持っていく世界だということでお互いに上の句を作り下の句を作るというやり方でその中から芭蕉の句

なども残った。作品そのものを残すということよりは、そうして集まって楽しみながら句を作るところに意義

を見出していた。短歌も本来そうしたものであろう。お互いに呼びかけあいながらすなわち、短会を開き、歌

誌をもちあっていくところに本当の良さがあるのではないか、その中から偶然いい歌が残るかも知れない。そ

れが短歌の存在価値ではなかろうか。そうした集まりで何を語り何を呼びかけあうかといえば、何万何十万の

歌をやる人の間におのずからきまったものが出てくるのではないだろうか。言葉にしても、表現にしても、あ

る方向がきまってくるんじやないかと思う。それは民衆の思想であり、お互いに手をつなぎ合って生きるであ

ろう。

                                     弁慶 

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